『美濃国諸旧記』『明智軍記』によってみると、光秀の父・明智光綱が死亡してのち、光綱の弟光安(光秀の叔父)が光秀を後見して明智城におり、斎藤道三に臣従していた。弘治2年の長良川の合戦で道三がその子義龍に討たれると、光安は進退に窮して明智城に引きこもってしまい、そのため義龍の追い討ちを受けることになった。義龍は年8月に3700の軍を派遣、対する明智勢は870人でよく防いだが、9月になってついに力尽き、光安は弟光久とともに討ち死にしてしまった。
このとき光秀も共に死のうとしたが、光安はそれを制止し、光安の子弥兵次光春と光久の子次郎光忠の将来、それに明智家の再興を光秀に託した。そこで光秀は明智城を脱出し郡上郡を経て越前(福井県)へ逃れたという。
これらの諸伝によれば、明智光秀は明智城の正統な主であり、実際明智城に在城していたことになる。
そして明智城の落城によって明智氏は滅亡し、光秀も流浪の身になったとされている。
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