わしらの明智様


朝倉氏に仕えていた時、光秀は一乗谷より小峠を越えた朝倉街道筋の大味村土井の内(福井市東大味)を所領として与えられた。ここに屋敷を構えて、妻子共々暮らしたという。この地で玉子が生まれている。玉子は後に細川忠興に嫁ぎ、細川ガラシャと呼ばれた。

光秀は東大味の人々を一向一揆との戦乱から守った。また後の天正元年(1573)に織田信長が朝倉氏の本拠一乗谷を攻めたときも、柴田勝家と諮って、この地が戦乱に巻き込まれないようにした。このときの安堵状が今も東大味の西蓮寺に残されている。東大味の人々は、光秀に恩義を感じ、逆臣と言われた時代にも、明智屋敷跡の三戸には「光秀の木像」を密かに守り続けたという。明治19年になってその明智屋敷に祠が建てられた。そこは高さ6寸ほどの「光秀の木像」を御神体として「明智神社」と命名された。

近年、明智神社奉賛会ができ、毎年6月13日には、光秀の遺徳を偲んで祭礼が行われている。それは「奉納明智神社」の白い幟と供物を飾り、むしろの上に近所の人々が座り、僧侶を招いて読経するというだけの質素なものである。

東大味の人々は、今も「世間が何と言おうとも、わしらの明智様です」と光秀を慕い続けている。