愛宕神社



明智光秀が発句に謀反の意を秘めたとされる「愛宕百韻」。これで名高い愛宕神社は、標高海抜924メートル、神仏習合の修験道上である愛宕山の山頂に鎮座する。

1582年5月27日、光秀は愛宕神社参籠。表向きは備中高松攻城中の羽柴秀吉に向けた、戦勝祈願のためであった。しかし本心は信長謀反の意を勝軍地蔵にゆだねるためであったのかもしれない。

またくじをひくことも、吉凶や勝敗を占う呪術的な方法であり、一種の戦勝祈願である。光秀はここで二度三度くじを引いている。

光秀はその晩、愛宕権現の社に泊まった。翌日同寺社西の坊で連歌師里村紹巴らと連歌の会を催した。
このとき詠んだ光秀の発句が

「時は今、 雨が下しる 五月哉」

であり、「とき」が光秀の出自である土岐源氏を意味し、「土岐氏がいま天下を治める五月です」と解されている。

里村紹巴:

連歌師。
出自は不明。興福寺の侍童となったが、里村昌休(里村南家)に入門し、後にその女婿となる里村姓(北家)を名乗る。その後、連歌界の第一人者となり、連歌史上最後の巨匠とも讃えられ、作品も多い。
本能寺の変の直前、明智光秀の愛宕百韻連歌に加わる。
変の当時は上京の新在家町から輿を借り出してきて、織田信忠の立てこもる二条御所より誠仁親王(陽光太上天皇)らを救出した。変後、愛宕の一件で豊臣秀吉の咎めを受けたが助かり、秀吉近侍の連歌師として活躍し、『連歌至宝抄』を編纂、呈上した。