幕臣・光秀


諸国を流浪していた明智光秀は、永禄5年(1562)朝倉義景の城下一乗谷へ来往した。それ以前、越前坂井郡長崎村の時宗道場称念寺に間借りをしていたが、かれは学識優れ、鉄砲については名人級で、さらに優秀な戦略家であったため、称念寺の園阿上人が朝倉義景に推挙したもとの言う。

この年、朝倉氏と一向一揆の戦いで、光秀は朝倉氏の武将青蓮寺景基の部下として功をあげ、翌年には義景の前で鉄砲の腕前を披露、その妙技を賞されて寄り子百人をつけられた。こうして彼は朝倉家中に重きを置くようになったが、その当時の朝倉氏はすでに文弱となっており、とても光秀の野心を満足させるものではなかった。

そんなとき、細川藤孝(幽斎)にともなわれた足利義昭が、義景をたよって越前に逃れてくる。細川藤孝は室町幕府官領家細川氏の庶流で三淵晴員の次男として生まれ、6歳のとき伯父細川元常の養子となった。12代将軍義春の四男であったという説もあるが、これは眉唾だろう。

永禄8年に13代将軍義輝が三好三人衆らに襲われて殺されたとき、義輝の弟義昭は覚慶といって奈良の興福寺大乗院門跡となっていたが、義輝の近臣だった藤孝は、事変が起こると、いち早く義昭を奈良から脱出させ、その後越前の国主朝倉義景のもとへともなったのである。

これをチャンスとばかり、光秀は藤孝に接近し、藤孝の推挙によって義昭の家臣となった。そして光秀が藤孝に勧めて、足利義昭は織田信長を頼ることになった。

文:谷口研語(法政大学非常勤講師) より引用