「文人」の顔


織田家には珍しい、連歌・茶の湯に堪能な光秀。反逆の原因を、その教養人としての性格に求める説も多い。
推測に過ぎないが、横暴な信長に対して、光秀は立派な教養人であり、光秀の反乱も信長が光秀の学者臭い教養を嫌って邪険に扱ったからだという説もあるくらいである。

光秀の連歌の会の最初の参加は永禄11年(1568)9月、信長と共に京都に入って連歌会に参加し六句を詠んだ。そして最後の会は本能寺の変の天正10年(1582)5月28日に山城愛宕山で催された「時は今雨が下なる五月かな」の連歌会で総じて24回催されている。(史料に残された会のみで)