光秀の妻熙子(ひろこ)について次のような逸話がある。
「光秀は妻木氏の娘・熙子と婚約したが、婚礼間じかになって彼女が疱瘡になり美貌の顔があばたになってしまった。父親は熙子と瓜二つの妹を替え玉として送り込もうとしたが、光秀は父親を諭し、約束どおり熙子を妻に迎えたという」
「1556年、稲葉山城の斎藤義龍軍に明智城は落城。熙子は身重の体で光秀とともに美濃を逃れた。そのとき、険崚な油坂峠超えを光秀の背に負われて逃亡したという」
光秀は当時一般的であった側室を持たずに熙子のみを生涯の伴侶としているというふうに広く言われています。本当だったらすごく素敵ですが、光秀の末裔の系図を見る限りでそうではないようです。
でも光秀の熙子に対する愛は深いものであったようですね。熙子の後年の献身は光秀の愛に応えるものだったのでしょう。
福井県丸岡町にある称念寺に芭蕉句碑があります。そこには
「月さびよ 明智が妻の はなせしむ」
とあります。
「奥の細道」で有名な松尾芭蕉が詠んだ句で、これは1689年に芭蕉が「奥の細道」の旅を終えて伊勢に入り、門弟山田又玄宅に旅宅した際に、けなげにもてなしてくれた又玄の妻に送った句である。
明智光秀が、越前朝倉家に仕官を求めて訪れていた頃、称念寺の園阿上人の好意で門前に仮住まいをしていた。その頃貧困であった光秀の妻は、ある連歌の会の酒肴を調えるに際し、夫に恥をかかせてはと女の命である黒髪を売って金をつくり客をもてなしたといいます。この悲しくも美しいお話はその地に語り継がれ、そこを歩いた芭蕉の耳にも入ったのでしょう。
夫への愛に生きた熙子は本能寺の変の6年前、光秀が城主となった坂本城で幸せのうちに生涯を閉じた。
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