姫路に入った秀吉は、すぐに出陣の準備を進めた。9日、浅野長政を留守居役に命じ、姫路を発って明石に向かい、夜中に兵庫に着いた。
そのような中、光秀は藤孝・忠興父子に覚書を与え、必死に来属を求めた。『細川家記』によれば、藤孝らは6月3日、変報に接したという。忠興は西国に出陣しようとしていたが、ただちに軍を返し、父子共に髻を払って信長への弔意を示した。そして藤孝は剃髪し家督を忠興に譲った。
忠興は家老の松井康之を通じて、光春に義絶を申し送り、また信孝のところに二心のないことを伝えた。さらに妻で光秀の娘の珠子を丹後の三戸野(京都府竹野郡)に幽閉した。
光秀は藤孝・忠興父子が当然味方してくれるものと信じていた。9日付けの光秀の覚書も、それを切々と訴えている。その概略は次のとおりである。
「元結を払われたとのことに一旦は立腹したが、考えてみれば当然である。しかしこの上は家老なり出して協力してほしい。貴殿には内々摂津を与えようと考えていた。もし若狭・但馬を望むならそれでもよい。(光秀が)思いがけないことをしたのは忠興などを取り立てるためである。50日から100日の間には近国をを平定する。そうしたら引退する」
光秀は二人の使者を持って説得したが、結局藤孝・忠興父子は光秀に味方しなかった。それは変の行方に大きな影響を与えるものであった。
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