5月17日、秀吉支援のために出動を命じられた光秀は、その日のうちに坂本に戻った。
21日、信長は、青山与三を坂本城に遣わして、改めて書状を持って出陣を命令した。そこには「日向守の軍勢は、催促の在り次第、備中表に出陣の上、粉骨砕身に及ぶこと。出雲・石見の両国を切り取り次第宛がうものである」と記されていた。
そのとき青山与三は声を潜めて、このたびの中国出陣に当たっては、近江坂本、丹波亀山、山城勝竜寺いずれも召し上げ、との信長の底意を述べた。それを聞いて、憤慨した光春・光忠・光近、それに溝尾茂朝・藤田伝五の五名は、血判状をもって決意を固めた。
坂本城で25日まで重臣達と軍議を重ねた光秀は
「心知らぬ人は何とでも云わば云え 身をも惜しまず名おも惜しまず」
の一首にその心情を示した。
家臣の中には、それを聞いて地に額ずき、感極まって嗚咽を漏らすものもいた。
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