本能寺の変黒幕候補?


本能寺の変後、近衛前久は事件への関与を羽柴秀吉と織田信孝から疑われ、その結果、一次嵯峨に逼塞し、ついには徳川家康を頼って近江へと下向した。
この怪しげな行動から前久を本能寺の変の黒幕に擬する人もいるが、事件後に前久が秀吉、信孝から受けた直接の嫌疑は通説のごとく、明智勢が前久邸から信忠のこもる二条御所に弓矢・鉄砲を撃ちいれた事に関するものだったのだろう。それにしては秀吉の追及は執拗であり、何か遺恨でもあるかのようだ。おそらくそのようなものがあったのではないだろうか。

前久は秀吉・光秀のぢちらとも親しく交流することはなかったが、前久と秀吉の間にはいくつかの接点があった。前久は足利義昭との確執があって信長と義昭が上洛した際に京都を出奔し、天正3年(1575)に帰京する。このとき前久の所領のことを信長に執り成したのは秀吉だった。また同6年に前久は、一時秀吉邸を仮住まいとしているが、兼見の日記によれば、これは「右府(信長)御意見」によるものだった。翌年前久は信長から二条御所の側に邸宅を拝領しており、これは先の秀吉の京都屋敷だったのではないかと考えられる。このあたりに何か秀吉の感情を害するものがあったのかもしれない。

帰京して以後の前久は、織田信長に重用され、社交面で信長と対峙の付き合いをするようになった。前関白という身分からすれば、それは当然のことであり、前久にとっては、もともと秀吉・光秀など信長の武将クラスは一段低い身分なのである。信長存命中の前久は秀吉・光秀クラスを見下していたことだろう。前久には彼らと親しく交流するつもりはなかったし、その必要もなかったはずである。したがって変後の秀吉が前久に辛く当たったのは、光秀の背後に前久の影がちらつくなどというややこしいものではなく、おそらく前久に反感を持つ一部公家衆と同様、秀吉もまた前久に個人的な反感を持っていたからだろうと推測する。
文:谷口研語(法政大学非常勤講師)より引用  



近衛前久 (このえ さきひさ)
天文5(1536)-慶長17(1612)
前太政大臣/本願寺顕如の子教如は前久の猶子
天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
「変」当日の動向は不明だが、光秀軍の兵士が二条御所所の近くにあった前久邸の屋根に登り、弓・鉄砲を射掛けたことから、光秀との関係を疑われ詰問されたという。