饗応役

天正12年(1582年)5月14日光秀は織田信長から坂本への帰国を命じられた。(『兼見卿記』)それまで光秀は翌15日に安土に到着する徳川家康一行を振舞うための準備役を務めており、京都や堺で珍しいものを調えていた。それらを材料に料理が作られ、15日から17日までの3日間大宝寺で家康らへの振る舞いが行われた。

通説では光秀が15日から家康の饗応役を務め、17日にそれを罷免されたとされる。安土での饗応は続いているので、明らかな途中でのお役ごめんだと理解され、それが本能寺の変の一因となったという説もあるがこれはフィクションと考えてよい。

『兼見卿記』『信長公記』によれば光秀が家康を直接接待するよう命じられたとは解釈できない。その準備を命じられたに過ぎず、家康到着前日の14日に、坂本への帰国を命じられているのである。
吉田兼見は光秀が準備期間中に奔走し大変苦労したと、日記に書き記している。家康への接待の落ち度のために途中で饗応役を罷免されたという説は成り立たないことになる。

こぼれ話

21日家康は上洛した。さらに大阪へ向かい「本能寺の変」のときには堺にいた。信長は案内役に長谷川秀一をつけた。秀一は実は家康の監視役であったという。信長により妻子を殺さざるを得なかった家康は光秀以上に信長に恨みを持っていた。その家康が事前に変を知らされていたかは定かでない。