村重の叛意と鬼の信長


天正6年10月21日、荒木村重叛意の噂が信長の耳に届いた。
村重が信長に背いた理由には諸説がある。しかしそれには、本願寺攻めのときにその臣が密かに兵糧を本願寺に売ったとか、光秀が謀反の邪魔になるから背かせたといった類のものが多い。
この謀反に際し、村重が信長に敵対していた本願寺や毛利氏と通じていたことは間違いない。叛意の伝わる直前、10月17日付けで本願寺光佐から村重とその子村次宛ての起請文が残されている。そこには村重の新知行は毛利氏に庇護されている将軍義昭に従うように述べられている。

11月3日、光秀は村重を討つために滝川一益の援軍として出兵した。その10日、織田軍により村重の拠る有岡城(旧伊丹城)は包囲された。その日のうちに村重配下の高山右近(高槻城主)中川清秀は信長に降伏した。

13日、この事態に信長は毛利氏・本願寺との講和を決意し、朝廷に勅使派遣を依頼した。そして光秀を上洛させ、勅使下向の交渉役とした。しかしその後、勝算の見えた信長はそれを取り下げて有岡城の包囲を続けた。
この頃、村重の子村次の妻であった光秀の長女は送り返されたという。

有岡城の包囲は続いた。村重が頼りとした毛利氏は摂津どころか播磨の別所氏救援すら思うに任せなかった。天正7年9月2日、織田軍が包囲を続ける中、村重は有岡城を抜け出しその子村次の守る尼崎城へ移った。これは毛利氏と接触するためであった。
村重の意図はともかく、その抜けた有岡城では足軽大将たちが謀反を起こし、11月19日に開城した。このとき一族の荒木久左衛門は村重のもとに赴き、尼崎と花隈の両城を明け渡せば妻子は助けようという織田方との条件を受け入れさせようとした。この条件は光秀が奔走し、信長に願い出て認められたものであった。しかし村重は久左衛門の説得に応じなかった。

12月13日から16日にかけて人質たちは皆殺しにされた。村重を懲らしめるために信長は人質の成敗について詳細を指示した。妻達一族37人は六条河原で斬首された。また残りの女房衆120人は尼崎近くの七松ではりつけに、召使の女子供、女房に付けられていた若党ら合計512人は4つの家に押し込まれ焼き殺された。

『信長公記』によれば、このとき荒木五郎左衛門なる者が光秀のもとに走りこみ、女房の命と代わりたいと懇願した。おそらく光秀は必死にその助命を請うたのであろう。しかし信長は聞き入れず結局夫婦そろって成敗されしまった。