長女:倫子
初婚は伊丹城主荒木村重の嫡男、村次だったが、村重の信長に対する謀反の前、光秀のもとに帰された。それから後、奇しくも昔母が父に負われて峠を越えたように、あのとき幼い倫子を背負ってくれた叔父、秀満に再嫁することになった。そして秀満の城福知山で母熙子のように秀満を愛しながらひっそりと暮らした。
しかし、1582年「本能寺の変」が勃発。羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れた光秀、明智一党の惨は倫子の命をも呑み込んだ。秀吉勢に囲まれた坂本城で、秀満や弟、重臣たちと共に、落城の炎の中に殉じたのである。29歳だったと言われる。
次女:名は不詳
信長の甥、織田信澄に嫁いで近江高島の大溝城に在った。「本能寺の変」時、信澄は信長の三男信孝に従って四国に渡海するため大阪に駐留していたが、光秀の娘婿という理由で殺害された。当然光秀の次女も大溝城で討たれたか自害した。
三女:玉子
後の細川ガラシャである。16歳で同い年の細川忠興に嫁いだ。利発で天性の美貌は、二人の姉を凌ぎ、若い家臣たちの憧憬の的であった。
忠興の父、藤孝は足利将軍義輝の庶兄とも言われる名門で、光秀と共に義輝死後、弟の義昭を信長のもとに担いで入京させ、将軍位にたたせるなどの働きをした同士であった。ゆえに明智と細川の婚姻は信長にとっても心強い家臣の提携であった。ところが本能寺の変によって細川家の態度は一変し、玉子は藤孝父子によって辺地、幽閉された。光秀と一味同心してきたはずの舅藤孝の仕打ちに玉子は苦しみ、悲しみ、果ては怨んだ。
そして秀吉の時代になると、忠興は丹後宮津に12万石を与えられ、藤孝(剃髪して幽斎)も別に4万石を加増された。そうした細川氏の転身が玉子をさらに傷つけた。
秀吉によって幽閉を解かれ、大阪の細川屋敷に戻ってきた玉子はかつての玉子ではなかった。密かに教会を訪ね、キリスト教禁止令発布直後の1587年6月洗礼を受けて霊名ガラシャを授かった。
1600年7月17日、豊臣・徳川の関ヶ原の戦いの2ヶ月前、石田三成の使者を受けたガラシャは大阪城へ人質として入ることを拒み、自害が許されないクリスチャンゆえに、老臣小笠原少斎の長刀で胸を突かれて37歳の生涯を終えた。
ザビエルの弟子、オルガンチノが細川邸の焼け跡からガラシャ夫人とその殉死者の遺骨を拾い細川家ゆかりの寺に埋葬した
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