光秀は信長の家臣とはいうものの、足利義昭とそれ以前より関係を持っていた可能性が強い。信長家臣のなかでも将軍に最も近い特殊な性格を持っていた明智光秀という人物なのである。
上洛後、光秀は京都と畿内の政務に携わる。永禄12年(1569)4月16日を初見として、光秀を含む4人による連署状がしきりに京都とその周辺に発給されている。4人とは光秀のほかに、丹羽長秀・木下秀吉・中川重政である。いずれもれっきとした信長譜代の家臣たち。信長に仕えて日の浅い光秀だが、もう信長家臣の中でも十指に入る重臣として扱われているのである。
だが光秀は、一方では足利義昭に直属する幕臣の性格も併せもっていた。
同時に二人の主君を持つという形は江戸時代には見られない現象である。そして当時にあっても特殊な例といえる。政務・軍事両面をきちんとこなす光秀を信長は手放したくなかっただろうし、義昭も旧来の縁から自分の直属として使おうとしていた。
つまりは光秀の有能さがこうした特殊な形を生んだということになるのだろう。
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