壮麗 坂本城


光秀は将軍足利義昭との主従関係に亀裂が生じた頃の元亀2年(1571年)9月、比叡山延暦寺を焼き討ちしたあとの信長から近江(滋賀県)志賀郡を与えられ近江坂本城主として築城に着手した。
この城は、城内に琵琶湖の水を引き入れた水城形式であり、また高層の天守閣に小天守閣を連立した豪壮なものであった。

ルイス・フロイスの『日本史』において、坂本城について「信長が安土山に建てたものに次、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」とその豪壮華麗ぶりを伝えている。

光秀の築城は、坂本が信長の安土城と京都を結ぶ湖上交通上の重要な拠点であることから考えて信長の意向に沿ったものであろう。

坂本城に関して光秀の歌二首が知られている。

「波間より重ね上げてや雲の峰  城山つたい茂る松村」

この歌は湖上に作られた坂本城を題材に明智一族にとって春風駘蕩の様子を描いたものと解釈される。

「我ならで誰かは植ゑむひとつ松  こころして吹けしがの浦風」

この歌は城下の名所唐崎の一つ松の親木が枯死したために、相続の苗木を側に植えたときに詠んだとされている。この歌については愛妻の行く末を祝福するものと解釈されている。愛妻の行く末とは死出の旅路であった。天正4年(1576年)妻熙子はこの地で没した。

そして天正10年(1582年)光秀が秀吉に山崎合戦で敗れ、秀吉軍の包囲を受けた城将明智秀満によって火が放たれ、この華麗な城は灰塵に帰した。