親友・吉田兼見


吉田兼見は京都吉田神社の神主であり、光秀とかなり親密な親交があった。なお、兼見は細川藤孝とも親しく、光秀・藤孝・兼見というユニットでの交流もしばしば見られた。

本能寺の変で信長が横死したことは兼見にとって衝撃だったが、一方で光秀が信長に取って代わったことは、新たなチャンスでもあった。本能寺の変が起こった6月2日午後2時ごろ、戦闘を終えた光秀が大津通りを近江へ下向することを知った兼見は、粟田口までわざわざ馬で駆けつけ、光秀に対面すると「在所の儀、万端頼みいる」の由を申し入れている。また、変後朝廷では光秀との折衝に兼見をあてている。

6日兼見は、誠仁親王より光秀への使者を命じられ、翌日、近江安土城に光秀を訪問したが、その際光秀が兼見に向かって、「この度、謀反の存分を雑談」したことは有名である。

9日に光秀が上洛すると、、兼見は直ちに白川まで迎えに出向いた。その後、光秀は兼見の屋敷に訪問し、過日の朝廷よりの使者の礼に来た旨を述べ、朝廷に銀子500枚、五山と大徳寺にも各100枚ずつ、さらに吉田神社修理の名目で兼見にも50枚を献上、それを兼見に託している。光秀はその日の夕食を兼見邸で振舞われている。

本能寺の変後、今や新たな「天下人」となった光秀に、さらなる接近をはかった兼見であったが、山崎の合戦で羽柴(豊臣)秀吉が勝利して光秀の天下は「3日天下」に終わってしまった。そうなると兼見としては光秀と親しかったことが逆に我が身の危険となる。そのことに不安を感じた兼見はしたためていた日記の天正10年分を6月2日でやめ、正月から書き直している。そこでは本能寺の変当日の午後、「在所の儀」を頼んだことや、6月7日に安土城で光秀が兼見に「謀反の存分」を語ったというような二人の親しい交流を示す記事はカットされたのだった。



吉田兼見・兼和 [よしだ かねみ・かねかず]
天文4(1535)-慶長15(1610).8
京都吉田神社の神主
天正元(1573)年、正四位下・神祗大副、天正10(1582)年、従三位、慶長2(1597)年、従二位に叙す。
朝廷の使者として、時の権力者と接触する機会が多く、著書『兼見卿記』は、当時の政治情勢や社会・文芸の諸方面にわたって貴重な資料である。
光秀との関係も深く、「変」直後にも、何度か会っている。