本能寺の変の後光秀にとって最も重要なことは、信長家臣や信長の敵対大名などをできるだけ多く見方につけることであった。そのために多くの書状をしたためた。
6月2日付の西尾光教へ宛てられた光秀書状(「武家事記」)の存在によって、本能寺陥落直後から開始されたと想定される。
西尾光教宛光秀書状では、信長父子の悪逆は天下の妨げになるので討ち果たしたと自身を正当化している。
戦国時代の飛脚は命がけだった。敵の領地は迂回しなければならない。運悪く敵に捕まる場合もある。そうした危険を回避してたどり着く。
光秀は自身の意向を書状にしたため、相手に送るのみの飛脚を多く使った。それが結果的に光秀の命取りとなってしまった。
毛利方に送った飛脚が秀吉陣に紛れ込んでつかまり、本能寺の変を秀吉がいち早く知る結果となってしまった。
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