まだ光秀が越前の朝倉義景に仕えていた永禄6年(1563年)のことという。あるとき義景は光秀、当時の明智十兵衛を召しだして、「その方は加州一戦のとき、鉄砲で多くの敵兵を打ち倒して功名を立てたが、奇特のことであるゆえ、近日その方の鉄砲の技量を見物することにしようぞ」と言った。
光秀は主の朝倉義景の鉄砲披露のことを下命されたのをかしこまって受けた。義景は諸役奉行の印牧弥六左衛門に本拠である一乗谷の安養寺という寺の下の馬場のあたりに、あずち(的の背後に土を山形に築くこと)を築かせた。そして25間のところに一尺四方の的を立てさせた。
光秀の試射は4月19日の午前10時ごろ始められた。的の数は100ある。火縄銃の試射には、普通八寸四方の白地の四角の中心に直径二寸の黒丸を入れたのを用いる。それを「角(すみ)」と称したが、このときはそれよりやや大きめの的が使われたことになるが、距離25間は遠い部類に入る。通常は15間。
光秀が射撃を試みること100回。2時間ほどで終了したとき、68発が星にあたり、残る32発もすべて角に当たっていた。
恐るべき神業と言わねばならない。これに感じ入った義景は100人の銃手候補を選び、光秀に預けたと『明智軍記』に記している。
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