10日、京都を発った光秀は男山八幡のすぐ南の洞ヶ峠に陣して、筒井順慶が来るのを待った。変の後、順慶は光秀に与同し、援兵を山城に出して治安にあたった。しかし5日、その兵を大和に返した。その後にも順慶は光秀のために山城に兵を出しているが、10日には兵を引き揚げ、米・塩などを郡山城に運び入れた。この頃には、秀吉が上洛するとのうわさがしきりに流れていた。
光秀は9日、藤田伝五を順慶のところに遣い、再三味方するよう説得した。しかし順慶は光秀に同心しないと返事した。10日、伝五はやむなく木津に帰った。
光秀は順慶が味方してくれるものと期待した。その理由はいくつかある。まず、光秀の子を順慶の養子としたことである。また、順慶の後継者となる筒井定次の妻は光秀の娘であった。さらに言えば、順慶が大和一国を与えられたのも光秀の尽力によるものであった。それにもかかわらず順慶は光秀に味方せず、その子を坂本城に送り返してきた。順慶の配下にあったが、娘を嫁がせていた槙島城主の井戸良弘は、光秀側に加わった。
洞ヶ峠で、ひたすら待ち続けた光秀のもとに、結局順慶は来なかった。
11日、光秀は洞ヶ峠を撤収し、下鳥羽に本陣を移した。また男山八幡と山崎からも撤兵し、勝竜寺城・淀城の防御を強化した。そして勝竜寺城の正面に主力を置き、天王山と淀川の隘路口から出てくる敵を逐次攻撃する作戦をとった。光秀の集めた兵は1万6千といわれる。
光秀はその組下であった池田恒興・中川清秀・高山右近らにも来属を求めた。しかし彼らは態度を鮮明にしなかった。
11日、尼崎まで進出した秀吉は、信孝・長秀や恒興らに着陣を告げ、参陣することを求めた。これに恒興らは応じた。このときの軍勢は、秀吉軍約2万に恒興4千、中川・高山で約4千5百である。8千の兵を率いて信孝・長秀が秀吉の待つ富田で合流するのは、13日になってからである。その総勢は3万6千にも膨れ上がっていた。
勝敗は戦う前から決着が着いていた。
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筒井順慶 [つつい じゅんけい]
天文18(1549)-天正12(1584).8.11
織田に属し光秀の寄騎、大和郡山城主
筒井順昭の子として生まれ、順昭が27歳で没したため2才で筒井家を継ぐ。
天正6(1578)年5月、信長から大和を与えられ、光秀の下で畿内の経営を任される。この時、信長は光秀に大和を与えようとしたが、光秀は辞退し、代りに順慶を推挙したといわれる。
大和郡山城の縄張りを光秀に依頼、大和の検地も光秀の指導を受けた。『明智軍記』によれば、光秀の第六子を養子に迎えたとされる。このように順慶にとって光秀は公私に渡り欠くことのできない存在であった。【明智光秀のすべて】
「変」を知り、一旦は大和を発し山城まで進んだが、引き返し、郡山城に糧食を入れ始める。
再三の光秀の誘いに態度を明らかにせず、後、秀吉に従い、領国を安堵された。(これが元で後に「日和見順慶」と呼ばれるようになった。はっきりしない態度を「洞ケ峠を決め込む」という。
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