馬揃え


信長は華やかな祭典という意味でも、独裁者の要件を余すところなく満たしている。信長の祭典といえば、天正9年(1571)2月28日に行われた馬揃えであろう。

光秀は信長から惣奉行を命じられた。このとき信長の家来だけでなく、「公家陣参之衆」と呼ばれる一部の公家衆も参加することになった。光秀が吉田兼見にも案内の書状を送ったので、兼見も参加したほうが良いのか不安になった。晴れの舞台に参加するのは何かと物入りで迷惑だったのだろう。
光秀はもし信長から兼見にもお呼びがかかったら、にわかの支度ではとても間に合わないだろうから、念のためあらかじめ声をかけておいただけだと釈明し、もしものときは信長にとりなしをするからと伝えて、兼見を安心させている。

また、光秀は太政大臣の近衛前久が馬揃えに参加するために良い馬探していると知って、家来に命じて坂本から馬をひいて前久に見せている。もっとも前久は気に入らなかったらしく、家来は馬を連れて坂本に帰っている。

光秀自身も馬揃えの支度に余念がなかった。馬揃えの5日前にあたる2月23日、光秀は細川藤孝らと共に200人あまりを引き連れて、兼見が所有する吉田の春日馬場での乗馬の鍛錬をしている。光秀の用意周到な性格がうかがえる。


近衛前久 (このえ さきひさ)
天文5(1536)-慶長17(1612)
前太政大臣/本願寺顕如の子教如は前久の猶子
天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
「変」当日の動向は不明だが、光秀軍の兵士が二条御所所の近くにあった前久邸の屋根に登り、弓・鉄砲を射掛けたことから、光秀との関係を疑われ詰問されたという。