1576年5月、石山本願寺を囲っていたとき、光秀は病気をわずらった。帰京した光秀は著名な儒医曲直瀬道三(まなせどうさん)の治療を受けた。24日、光秀の正室熙子が吉田兼見宅を訪れ、光秀の病気快癒のための「祈念」を頼んでいる。
また、信長も心配して使者を遣わして光秀を見舞っているほどである。
吉田兼見が7月14日、坂本城に見舞っていることから、光秀はこの病気により2ヶ月近く寝込んだらしい。(『兼見卿記』による)
吉田兼見・兼和 [よしだ かねみ・かねかず]
天文4(1535)-慶長15(1610).8
京都吉田神社の神主
天正元(1573)年、正四位下・神祗大副、天正10(1582)年、従三位、慶長2(1597)年、従二位に叙す。
朝廷の使者として、時の権力者と接触する機会が多く、著書『兼見卿記』は、当時の政治情勢や社会・文芸の諸方面にわたって貴重な資料である。
光秀との関係も深く、「変」直後にも、何度か会っている。
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