信長と将軍とに両属した立場の光秀だったが、両者の対立の中で、次第に信長のほうに偏ってきたようである。それで将軍義昭との間に齟齬が生じるようになり、義昭から強く叱責されたのだろう。
直接の原因は何か。タイミングから言うと、光秀が信長より近江の支配権を委ねられたことではなかろうか。叡山焼き討ち後、信長は主だった家臣達に南近江の地を与え、郡単位の支配権を委ねるが、光秀には志賀郡の支配権が委ねられ坂本城が与えられた。
次第に信長に接近し、信長のもとで重要な役割を担うようになった光秀を義昭が叱り付け、光秀がたまりかねて致仕しようとしたというのが真相なのではあるまいか。
元亀4年(天正元年)ついに将軍義昭は打倒信長を旗印として兵を挙げた。光秀の支配地の中である志賀郡の石山・今堅田の砦に幕臣をいれて、反信長の拠点としたのである。
もう光秀は躊躇しなかった。柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆とともにこれら将軍方の砦を攻撃し、たちまちに撃ち破った。
こうして光秀は将軍義昭と絶縁し、その後は信長の武将に専念するようになるのである。
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