明智光秀人物事典
斎藤道三(さいとうどうざん)明応3年(1494年)? - 弘治2年4月20日(1556年5月28日)
美濃稲葉山城主となって「国盗り」を成功させた美濃の蝮。
次々と仕官先の主家を乗っ取っり、謀略などを多用した事などから、美濃の蝮と呼ばれ、下克上を体現した人物であったとみなされる

出自には不明な点が多い。初めは京で出家した後に還俗して油商人の女婿となり油売りをしていたが、後に美濃守護・土岐頼芸の殊遇をうけ、家臣長井氏の家老西村家を継ぎ、西村勘九郎と称す。次いで主家長井利隆の跡を継承して長井規秀と改める。

1538(天文7)年には守護代斎藤氏を継いで利政と改名、稲葉山城を本拠とし、1542(天文11)年にはついに頼芸を放逐、美濃一国を奪う。

しばしば尾張国の織田信秀と争ったが、後に娘の濃姫(帰蝶姫)を信秀の嫡子織田信長に嫁がせて和睦した。この時の有名なエピソードとして「正徳寺の会見」が有名である。これは、娘婿の織田信長を一目見ようと正徳寺にて会見をしたのであるが、当時「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤道三はこのような人物にこそ斉藤家を継がせたいと思ったというものである。

家督を子の斎藤義龍に譲って隠居し、剃髪して道三と号したが、後に義龍と不和になって殺された。この時、織田信長は道三に援兵を出すが到着する前に既に道三は討ち取られてしまっていたという。義龍との不和は、義龍が道三の実子ではなく実は土岐頼芸の子であったからだとする説がよく知られているが定かではなく、原因は不明である。
光秀の父・明智光綱が死亡してのち、光綱の弟光安(光秀の叔父)が光秀を後見して明智城におり、斎藤道三に臣従していた
斎藤義龍(さいとうよしたつ)大永7年(1527年) − 永禄4年5月11日(1561年6月23日)
美濃の戦国大名
父は斉藤道三と言われているが、母・三芳野は道三の側室となったときにはすでに土岐頼芸の子を懐妊していたとも言われており、この義龍は、頼芸の息子であるとも言う説がある。
このような経緯から、道三と義龍の仲は悪く、道三は義龍を廃嫡しようとした。このため1555年、義龍は道三が寵愛している弟・斉藤義重と斉藤龍定を殺害して父に対して敢然と謀反を起こす。そして翌年、長良川にて父子は対戦したが、義龍は大軍をもってこれに大勝し、道三を討ち果たした。
しかしこのため、尾張の織田信長や近江の浅井長政を敵に回すことになり、晩年の義龍はこれらの対処に苦慮することになる。1561年、突如として病死した。
長良川の合戦で道三が義龍に討たれると、光安は進退に窮して明智城に引きこもってしまい、そのため義龍の追い討ちを受けることになった。義龍は1556年8月に3700の軍を派遣、対する明智勢は870人でよく防いだが、9月になってついに力尽き、光安は弟光久とともに討ち死にしてしまった。このとき光秀も共に死のうとしたが、光安はそれを制止し、明智家の再興を光秀に託し光秀は明智城を脱出したという「美濃国諸旧記」「明智軍記」による
斎藤帰蝶・濃姫(さいとうきちょう・のうひめ)天文4年(1535年)? - 慶長17年7月9日(1612年8月5日)?
織田信長の正室。
斎藤道三と明智光継の娘小見の方の娘。明智光秀とは従兄妹同士という説有り、1549(天文18)年に尾張の織田信長に嫁ぐ。二人の間に子供はなかった。その人物像は不明で信長に嫁いだあとの消息も諸説分かれ、記録も多く残っていない。1582(天正10)年の本能寺の変の際には信長とともに本能寺にあったらしく、脱出して安土城に逃れている。
没年にも諸説があって定かではないが、一説として、慶長17年(1612年)7月9日に78歳で逝去とされる
朝倉義景(あさくらよしかげ)天文2年9月24日(1533年10月12日) - 天正元年8月20日(1573年9月16日
越前の戦国大名
1533年9月24日、越前の戦国大名で朝倉氏の当主である朝倉孝景の嫡男として生まれた。しかし義景の戦国武将としての器量は皆無であった。

1565年、将軍・義輝が暗殺された。このとき、義輝の弟で京から命からがら逃げ出した足利義昭を越前一乗谷に迎えて保護したが、幕府再興を目指す義昭が望む上洛は、義景の行動力不足と優柔不断さで実現されず、しびれを切らした義昭は、美濃を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って越前から去ったという。だが、このとき、義景が義昭を擁して上洛していれば、朝倉氏の天下取りも決して不可能ではなかったはずである。

1568年、信長は義昭を擁して上洛した。しかし信長と義昭の関係は次第に険悪なものとなり、1569年の『殿中御掟』を機会に両者の仲は完全に決裂した。そして義昭は、信長を打倒するために武田信玄や毛利元就らと通じあって信長包囲網を形成する。このとき、義景も反信長勢力の一員として義昭に与する。

しかしそのため、1570年に織田信長と徳川家康の連合軍からなる越前討伐軍に攻められることとなる。このとき、朝倉軍は連戦連敗を続け、滅亡の危機にまで追い詰められたが、浅井長政が織田軍の背後を突いてくれたため、何とか窮地を脱している。そしてこれより、朝倉氏は浅井氏と共同戦線を張って、織田信長と抗争することになるのである。

しかし、義景は信長という強大な勢力を敵に回したにも関わらず、この期に及んでもまだ危機感が無かった。同年に起こった姉川の戦いには、浅井長政に援軍は送ったが、自身は出陣せず、一族の朝倉景鏡を代理の総大将として派遣しているのである。

1573年4月、信長にとって最大の強敵であった武田信玄が病死し、信長包囲網の一角が崩れた。そして、この好機を信長は見逃さず、即座に反攻に転じた。8月、信長は3万を号する大軍を率いて近江に攻め入ったのである。

これに対して、朝倉義景も浅井長政の度重なる要請もあって、ようやく自らが総大将として2万の軍勢を率い、浅井氏の援軍として近江に出陣する。しかし、やはり義景は信長の敵ではなかった。朝倉軍は刀禰坂の戦いで織田軍の猛追撃を受けて壊滅し、義景は命からがら、越前一乗谷に落ち延びたのである。

しかし一乗谷もやがて織田軍の追討を受け、義景はわずかな家来を連れて越前大野郡の賢松寺に身を隠した。しかしそこで一族の朝倉景鏡の裏切りにあった義景は、自害を余儀なくされたのである。享年41であった。ここに戦国大名の名門・朝倉氏は滅亡したのである。

斎藤義龍軍の攻撃を受けた光秀は、なんとか城を脱出して越前に赴き、鉄砲の技術をもって朝倉義景に召抱えられる。「明智軍記」より
足利義昭(あしかがよしあき)天文6年11月3日(1537年12月5日)-慶長2年8月28日(1597年10月9日)
室町幕府15代将軍。

12代将軍義晴の次男。若年のころに出家して興福寺一乗院に入って覚慶と称するが、1565(永禄8)年に兄の13代将軍義輝が松永久秀らにより殺害されると自身も久秀の手によって奈良に幽閉されることとなる。だが、幕臣である細川藤孝や和田惟政らに助けられて脱出することとなる。このとき、還俗して義秋、後に義昭と名乗ることとなった。

幕府再興を期して越前の朝倉義景を頼るが、右顧左眄して動かない義景に見切りをつけ、岐阜の織田信長を頼る。

1568(永禄11)年、信長とともに上洛。15代将軍に就任。義昭の後ろ盾となった信長には「天下布武」という野望があった。信長に副将軍職、管領職を打診するがいずれも断られ、次第に信長と対立するようになり、石山本願寺、甲斐の武田信玄、安芸の毛利輝元、北近江の浅井長政らと同盟して信長包囲網を形成。とりわけ信玄の上洛に期待するも信玄病没により叶わなかった。

1573年に信長に対して二度にもわたって挙兵する。一度目は正親町天皇の勅命もあったためにさすがの信長も義昭を許したが、二度目は許さず、京の町を焼き払ったうえで義昭を攻めて捕らえ、河内に追放した。これにより、室町幕府は完全に滅亡した。

信長によって京都を追放された後、義昭は毛利領の備後である鞆に亡命し、そこから信長打倒を目指して諸大名に討伐令を下し続けたという。信長の死後、毛利氏が豊臣秀吉の配下となると、自身も秀吉の側近として仕えたという。
1567年10月9日朝倉義景の許を去り、ほどなく美濃に帰国し織田信長に仕えるという?「明智軍記」より
越前に足利義昭が逃れてくると、光秀は京都に攻め上って義昭を征夷大将軍につけさせるよう織田信長に要請する使者に立てられた。
織田信長(おだのぶなが)天文3年5月12日(1534年6月23日) - 天正10年6月2日(1582年6月21日)
戦国時代の武将。既存の権威や勢力を否定、門地によらない人材登用、新兵器の活用などを通して天下統一事業を推進した。その一方で延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策により悪評も絶えず、魔王とも呼ばれる。法名は総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀など。

1534年、尾張国守護代家の家老であった織田信秀の次男(三男とする説も)として誕生した。幼名、吉法師。幼くして尾張国の那古屋城々主になった。若い頃から奇矯な行動が多く、周囲から「大うつけ」と称されることもあった。

1546年、元服して織田上総介信長と称すると、1548年、美濃国の戦国大名斎藤道三の娘濃姫と政略結婚した。

1551年、父信秀の没後、家督を継承したが、奇行が災いして、柴田勝家らの重臣が実弟信行の擁立を企てて反旗を翻した。数年を経て敵対勢力の鎮圧に成功した信長は、1559年、尾張国内の支配権を確立すると、1560年、尾張に攻め上ってきた今川義元を桶狭間において破った(桶狭間の戦い)。

その後、三河の徳川家康と同盟を締結し、美濃、伊勢攻略に専念。1567(永禄10)年には斎藤竜興を美濃稲葉山城に滅ぼし、それを岐阜城と改め、「天下布武」の拠点とする。翌年には足利義昭を率いて上洛、義昭を室町幕府15代将軍の座に据える。

信長の傀儡の地位に我慢ならなかった足利義昭は、間もなく武田信玄・朝倉義景などの大名や延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて反信長包囲網を結成した。信長は、1570年、朝倉・浅井連合軍を姉川の戦いで破り、1571年、延暦寺を焼き討ちするなどして対抗した。

1572年、足利義昭に呼応した武田信玄は、上洛を決意し、徳川家領内に侵入して織田・徳川連合軍を三方原の戦いで破ったが、信玄の病死によって武田軍は甲州に撤退し、反信長包囲網が破綻した。

勢いを得た信長は、1573年、義昭を京都から追放し、浅井氏・朝倉氏を滅亡させると、1575年、信玄の後継者であった武田勝頼を、大量の鉄砲を投入して長篠の戦いで破った。

1576年、岐阜城から近江国琵琶湖々岸に完成した安土城に移り、天下統一事業に邁進した。

1577年、豊臣秀吉を中国地方に派遣して毛利氏攻略を開始した。1578年、上杉謙信が上洛を計画中に病死したこともあって、信長の天下統一事業は、ますます現実味を帯び、1580年、有利な条件で顕如と和睦して、石山本願寺を大阪から退去させた。

1582年、6月2日払暁、中国地方へ向かうために宿泊していた京・本能寺が突如光秀勢に包囲される。小姓森蘭丸らの健闘も空しく、信長も自ら戦闘するが衆寡敵せず、天下統一を目の前にして本能寺の炎の中に散る。
細川藤孝(ほそかわふじたか)天文3年4月22日(1534年6月3日) - 慶長15年8月20日(1610年10月6日)
戦国武将。歌人である。三淵晴員の次男で、細川元常の養子。幼名を萬吉、剃髪して幽斎と号す
足利家臣三淵大和守晴員の次男に生まれ、後に晴員の実兄和泉守護細川元常の養子となる

1554(天文23)年、元常の死により家督。12代将軍足利義晴、13代将軍足利義輝に仕え、1565(永禄8)年の義輝横死後は弟義昭の将軍擁立に奔走、越前一乗谷城主朝倉義景を頼った後に明智光秀をつてに織田信長に接近し義昭の後ろ盾となる事を依頼した。、1568(永禄13)年に念願の上洛、義昭の15代将軍就任を果たし、山城勝竜寺城主となる。

後年義昭と信長の対立が表面化すると使者として両者の仲介に奔走したが次第に信長に接近し、天正3年(1573年)3月に義昭が挙兵するとこれを見限り、軍を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。これ以降は織田信長の武将として活動する。

信長に恭順した幽斎は山城国長岡と長岡の姓を与えられ畿内各地を転戦。対石山本願寺戦、雑賀攻めなどの他、明智光秀の与力として丹波・丹後平定戦でも活躍し、天正7年(1579年)に丹波、丹後の平定に成功すると丹後国を与えられ宮津城を居城とした。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変では、明智光秀の再三の要請を断り信長の死を悼んで剃髪して幽斎と号し家督を嫡男・細川忠興に譲って羽柴秀吉に属した。

信長に恭順した幽斎は山城国長岡と長岡の姓を与えられ畿内各地を転戦。対石山本願寺戦、雑賀攻めなどの他、明智光秀の与力として丹波・丹後平定戦でも活躍し、天正7年(1579年)に丹波、丹後の平定に成功すると丹後国を与えられ宮津城を居城とした。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変では、明智光秀の再三の要請を断り信長の死を悼んで剃髪して幽斎と号し家督を嫡男・細川忠興に譲って羽柴秀吉に属した

秀吉死後は徳川家康に加担し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い直前に石田三成勢によって丹後田辺城を包囲されるが、約500の兵で籠城してこれに屈せず。戦後、家康より但馬一国を拝領する。

晩年は京・吉田にあって隠棲。1610(慶長15)年、77歳で没。
藤孝は当代きっての文化人であり、三条西実枝に古今伝授を受け近世歌学を大成させた。

藤孝と光秀の出会いは、義昭擁立に共に尽力したときが最初であったと言われる。軍事的には光秀の組下のような立場ではあったが、本能寺の変後、反逆者の片棒は担がずに剃髪して風流にいそしんだ。
細川忠興(ほそかわただおき)永禄6年11月13日(1563年11月28日) - 正保2年12月2日(1646年1月18日)
安土桃山時代〜江戸時代の大名豊前小倉藩主。
細川藤孝の長男。千利休の高弟で茶道に通じ、「利休七哲」の一人に数えられる。

1577(天正5)年、紀伊雑賀一揆鎮圧に父藤孝に従って初陣。同年、松永久秀の信貴山城を攻略して武名を上げる。翌年織田信忠より「忠」の一字を賜り「忠興」と名乗る。明智光秀の娘玉を妻に迎えたのもこの年のことである。

本能寺の変では光秀に招かれるが羽柴秀吉に合力。丹波の光秀領に攻めこみ属城を落とす。この功績により、丹後国内で光秀が押領していた領地を得たのみならず、玉とも復縁。賤ヶ岳の戦いでは越前に侵入して活躍。1585(天正13)年に「羽柴」姓を許される。1590(天正18)年の小田原征伐後、忠興の会津襲封が議せられたが、それとなく辞退。

1595(文禄4)年の秀次失脚事件に連座して石田三成の詰問を受けるが、徳川家康により救われる。秀吉没後の1599(慶長4)年、三成との対立が高じる一方、家康に二心なき旨の誓紙を差し出し、三男忠利を人質として預ける。家康はこの見返りに忠興に豊後杵築6万石を与える。

関ヶ原合戦では妻ガラシャを失うが、軍の功績により豊前一国と豊後の一部39万9000石を領する。1602(慶長7)年に、築城なった豊前小倉城に移る。1620(元和6)年に三男忠利に家督を譲り、1645(正保2)年12月、八代で没。83歳。


忠興は信長の命により、光秀の三女玉子(のちの細川ガラシャ)と結婚した。忠興にとって光秀は舅であり、軍事的には寄り親的な存在だが、あくまで信長あっての関係だった。忠興にとって信長は直接の主君であり、畏敬すべき人物と映っていた。その忠興が本能寺の変で光秀に加担するはずもなく・・・

細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ)(永禄6年(1563年)−慶長5年7月17日(1600年8月25日)
明智光秀の三女で細川忠興の妻。名は玉(玉子、玉姫など)。キリシタン女性として有名。

1563年、明智光秀と妻煕子の間に三女として生まれた玉は、1578年15歳のときに父の主君織田信長のすすめによって細川幽斎(細川藤孝)の嫡子で15歳の細川忠興に嫁いだ。玉は美しい女性であり、忠興とは仲のよい相思相愛の夫婦であり、三男(忠隆・興秋・忠利)三女(於蝶・多羅・お万)をもうけた

しかし1582年6月、父の光秀が主君・織田信長を本能寺の変で討って自らも滅んだため、玉は「逆臣の娘」となった。忠興は信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉に配慮したが、玉を愛していたがために離縁する気にもなれず、1584年まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉した。

1584年3月、見かねた秀吉自身のとりなしもあって、忠興は玉を細川家の大坂屋敷に戻す。忠興は玉を屋敷に軟禁し、外出を禁止した。人生の変転の中で、玉はすでにキリスト教徒だった小侍従清原マリア(清原枝賢の娘)からキリスト教の話を聞き、その教えに心ひかれていった。大坂に滞在していたグレゴリオ・セスペデス神父のはからいにより、玉は1587年に密かに小侍従の手によって洗礼を受け、ガラシャ(ラテン語で恩寵の意)という洗礼名を受けた。忠興はこれを知って激怒し、秀吉から禁教令が出されていたこともあって再三棄教を迫ったが、ガラシャは応じなかった。

1600年、関ヶ原の戦いの勃発時、大坂の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶。三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、キリスト教徒であったガラシャは自害を選ばず、家老の小笠原少斎に胸を貫かせて死んだ。享年38。「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という辞世の句が後世に伝わっている。このあと、小笠原少斎は屋敷に火をかけて自刃した。38歳。忠興は、愛したガラシャの死を深く悲しんだと言われている。

ガラシャの死後間もない1600年7月17日、オルガンティノ神父は細川屋敷の焼け跡を訪れて、ガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興は後にこれを大坂の崇禅寺へ改葬した。


明智と細川の婚姻は信長にとっても心強い家臣の提携であった。ところが本能寺の変によって細川家の態度は一変し、玉子は藤孝父子によって辺地、幽閉された。光秀と一味同心してきたはずの藤孝の仕打ちに玉子は苦しみ、悲しみ、果ては怨んだ。
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