天海人物事典
光秀=天海説に基づく人物相関
徳川 家康(とくがわ いえやす)天文11年12月26日(1543年1月30日) - 元和2年4月17日(1616年6月1日)
戦国・安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
1542(天文11)年、岡崎城主松平広忠の嫡男として三河国に生まれる。母は三河刈谷城主水野忠政女の於大(伝通院)。

家康が2歳のときに1544(天文13)年、母於大の実家水野家が織田信秀に与したため、父広忠は於大を離縁。1547(天文16)年には今川家の人質として駿府へ送られる途中、戸田康光に身柄を奪われて尾張那古野城の織田信秀の下に預けられる。この幼少期、信秀の三男信長との親交があったという。

1549(天文18)年、父広忠が近臣に暗殺されたため、一時岡崎に帰還。しかし程なく今川の人質として駿府へ再び送られ、1557(弘治3)年には今川義元の下で元服、義元の姪である関口親永の娘(築山殿)を娶る。名乗りは、義元から元の字の偏諱を受け、はじめ松平次郎三郎元信、のち松平蔵人佐元康と称した。元服後も帰還を許されず、岡崎城と領地はそのまま今川氏の城代支配にとどめられた。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた時には前線の尾張大高城にあったが、義元敗死の報を聞き三河に退く。このとき今川軍が放棄した岡崎に入城、今川氏から自立を果たした。

1566(永禄9)年、徳川姓に改姓。1568(永禄11)年には、駿河侵攻を企図する武田信玄と謀って遠江に侵攻。2年後には遠江浜松に居城を移転する。1570(元亀元)年には信長とともに近江姉川で浅井・朝倉連合軍を撃破。しかしそのころ東は武田信玄の脅威にさらされていた。武田勢は1571(元亀2)年以降、三河国内に度々侵入。1572(元亀3)年には信玄自ら上洛を企図し、12月に遠江三方ヶ原と戦って家康は惨敗。翌年4月の信玄病死によって救われた形となった。信玄の死後は逆に家康方が優勢となり1575(天正3)年5月には、信長とともに三河長篠に武田軍を壊滅させる。

このころ元服した長男・信康は利発で勇猛な武将に育っていた。信長はそれを脅威に感じたか、信康とその生母築山殿に嫌疑をかけ、1579(天正7)年8月、家康は同盟関係維持のために自身で殺害を命じる悲劇を経験している。家康は生まれたばかりの三男秀忠を継嗣と定める。

1582年の信長の武田攻めでは駿河からの攻撃を担当、武田滅亡後、駿河を領国として獲得した。

さらに同年の本能寺の変の際、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐と信濃の南半分を手に入れ、合計5か国を領有する大大名に成長。家康は今川氏・武田氏の旧臣を積極的に雇用して家臣団を強化するとともに、本拠地を駿府に移した。

1584(天正12)年になると、信長の遺業を引き継いだ豊臣秀吉と対立。家康は織田信雄(信長次男)と同盟して尾張小牧長久手に戦する。11月、和睦が成り、家康は次男秀康を秀吉の養子に差し出す。秀吉はしきりに家康に上坂恭順を求めるが、家康は腰を上げず。そのため秀吉は妹朝日姫を家康の室にせしめ、生母大政所(なか)を人質として家康の許に送る。生母までも送られた家康はすぐに上坂、1586(天正15)年10月、秀吉に謁見し、臣下の礼をとる。その後秀吉の天下統一事業が着々と進む中、家康は東国諸大名の上洛を促し、1589(天正17)年には、信濃侵略中の1585(天正13)年に惨敗を喫した信濃上田城主真田昌幸と講和、北条氏政父子にも恭順の意を示すよう働きかけた。しかし氏政らは動かず、結局秀吉の小田原征伐を招き、1590(天正18)年7月、家康を通じて小田原城は開城され、奥羽の諸大名も秀吉に臣従。ここに天下統一が成る。

秀吉の朝鮮出兵には二度とも反対。自らは国内にあって動かなかった。1598(慶長3)年8月の秀吉没後は、家康の力に脅威を覚える石田三成らと対立。加賀金沢城主前田利家の周旋もあって暫くは事なきを得たが、利家の死後は俄かに関係が悪化。1600(慶長5)年4月の陸奥会津城主上杉景勝の上坂命令拒否を契機として、大軍を率いて東下。下野小山に滞陣する。7月には石田三成が毛利輝元らを奉じて家康討伐のために挙兵。家康は小山に秀康を残して西上。9月15日、美濃関ヶ原にて西軍をわずか半日で壊滅させ、政権をほぼ掌握。

1603年、征夷大将軍・右大臣に任じられ、江戸幕府を開く。1605年には息子の秀忠に将軍職を譲って徳川将軍家による将軍職の世襲を確実なものとした。1607年からは駿府城に移るものの、江戸城の将軍に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。晩年は豊臣氏の処置に精魂を注ぎ、大坂の役を経て、1615年、ついにこれを滅ぼして徳川政権による日本全域の支配を実現した。

翌1616年、駿府城において死去。死因は胃がんとされるが、食中毒との説もある。遺言によって駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られた。のちに江戸幕府の始祖として家康は神格化され、側近の僧侶天海の発意によって山王一実神道に乗っ取って薬師如来を本地とする権現とされ、東照大権現の神号が贈られて江戸城の真北の方角に当たる日光に設けられた東照社に改葬された。家康は江戸幕府の守護神「東照神君」「権現様」として江戸時代を通して崇拝された。


徳川秀忠(とくがわひでただ)天正7年7月7日(1579年7月30日) - 寛永9年1月24日(1632年3月14日))
江戸幕府2代将軍。
家康の三男。松平忠吉は同腹の弟。長兄信康は秀忠の生まれた年に織田信長の命で切腹させられ、次兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて結城氏を継いだので、家康継嗣として育てられる。

1595年には信長の姪(妹お市野の娘)お江与と結婚。1600年の関ヶ原の役では、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めに時間を奪われて九月十五日(西暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった。

戦後は、後継者に結城秀康が推されるなどの動きもあったが、大久保忠隣などの周旋によって家康後継者の地位が確定。正室お江との間になかなか男子が誕生せず、周囲の気をもませるが、1604(慶長9)年、長男竹千代(後の三代将軍家光)が誕生。

1603年に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、1605年に秀忠に将軍職を譲った。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執り、武家諸法度・禁中並公家諸法度の発布を行った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、1615年、豊臣氏を滅ぼす。豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。

1616年に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、御三家を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。

1623(元和9)年、家光に家督を譲り、自らは大御所として君臨。1632(寛永9)年1月24日、54歳で死去。なお、秀忠・お江夫妻が偏愛した次男忠長は家光との不和から1633(寛永10)年に切腹、乳母大姥局の侍女お静に生ませた男子はお江与に隠して養育され、後に陸奥会津藩主保科正之となり、家光の治世に大きく貢献した。
徳川家光(とくがわいえみつ)慶長9年7月17日(1604年8月12日) - 慶安4年4月20日(1651年6月8日))
江戸幕府3代将軍。
徳川秀忠の次男母は織田信長の姪お江与である
秀忠と母お江与との間に長丸という子がいたが、既に早世していたため世子として育てられ、祖父家康と同じ幼名竹千代を与えられた。幼少時は家康の意向で 京都所司代板倉勝重が乳母を公募し、明智光秀家臣の斎藤利三の娘である福(のちの春日局)により養育された。関連記事:光秀=天海説「お福登用の謎

三男国千代(後の忠長)を偏愛する秀忠、お江夫妻とは幼少の頃より不仲で、祖父家康に畏敬の念を抱いていたとされる。1615(元和元)年に家康により秀忠世継とされ、1620(元和6)年、元服し竹千代改め家光と称す(加冠は土井利勝、理髪は酒井忠世)。

1623(元和9)年、将軍宣下。3代将軍に就任するも実際の政務は大御所秀忠が執ることが多かった。1626(寛永3)年には上洛して参内。

1631(寛永8)年には秀忠が病床に伏したこともあってか忠長との不和は決定的となり、忠長を甲斐に蟄居せしめ、2年後切腹せしめる。

1632年に秀忠が死去すると二元政治を解消して将軍親政による政治を始める。老中・若年寄・奉行・大目付の制を定めて、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。諸士法度の制定、加藤忠広など大大名の改易を断行して武家統制の強化を図った。1635年の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的から貿易統制とキリシタン弾圧を強化し、1637年の島原の乱を経て1641年までに鎖国体制を完成させた。家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。

1635(寛永12)年には武家諸法度を改正し、諸大名の参勤交代を義務化。幕藩体制の強化に尽力。
家光は幕藩体制の完成者として高く評価される一方で、日光東照宮の建設などに家康以来の蓄積を使い、幕府財政窮乏の端緒を作ったとも言われる。1651年、江戸で没し、日光の輪王寺に葬られた。法名は大猷院。
斉藤利三(さいとうとしみつ)天文3年(1534年) - 天正10年6月17日(1582年7月6日)
戦国時代の武将。明智光秀の家老。美濃斎藤氏の一族
元は斎藤義龍の家臣。次いで稲葉一鉄に仕えた。しかし1579年頃に一鉄と喧嘩別れし、母が明智光秀の妹という伝手を頼って、光秀に仕えたと言われている。

1582(天正10)6月2日に光秀に従って本能寺を襲撃。信長を自刃に追い込んだ後、羽柴(豊臣)秀吉の居城、近江長浜城を接収した。
そして変後の山崎の戦いでは先鋒として活躍するが敗れて逃走。しかし秀吉の懸命な捜索により近江で捕縛され、六条河原で斬られた。首は光秀とともに本能寺で晒されたと言われている

なお娘にふくがおり、後に徳川家光の乳母春日局となった。

稲葉正成(いなばまさなり)元亀2年(1571年-寛永5年9月17日)
豊臣家臣。春日局の夫。
美濃十七条城主林政秀の子。林氏と稲葉氏は同族ながら境界紛争が絶えず、稲葉氏の家老岡部右兵衛の斡旋で稲葉重通の娘まんを正成の兄政行が娶り、政行が若くして亡くなり重通も死去したため、未亡人まんを娶り重通の婿養子となり稲葉姓を称す。その後、まんが亡くなったため重通の養女お福(のちの春日局)を後妻とする。お福とはその後離別し、永見氏の娘を正室に迎えている。

最初美濃高須城主として斎藤道三に仕え、のちに豊臣秀吉に仕えた。1591(文禄元)年に小早川秀秋付家老となり4万石を領した。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、主君秀秋を東軍に内通させる。 翌年、小早川家を退去するが、1607(慶長12)年に徳川家康に召し出されて1万石で仕え、大坂の陣では松平忠直に属した。
1628(寛永5)年9月17日、58歳で死去。

慶長5年(1600)の関ケ原合戦のとき、光秀はお福の夫稲葉正成に、その主君小早川秀秋の西軍裏切りを工作させた。そしてそれこそが東軍勝利の鍵であり、江戸幕府開府の最大の功となった。
この関ヶ原合戦の功と本能寺での違約のため、家康は徳川天下取りの最大の功労者「天海」と稲葉正成の妻お福を重用し、その子である正勝を老中にまで登用、その異父弟家光を家康の真の後継者とするのである。



春日の局(かすがのつぼね)天正年(1579)-寛永20年(1643)
3代将軍徳川家光の乳母。
父斎藤利三は明智光秀の家臣で、1582(天正10)年6月の本能寺の変に加担。利三は後に山崎の戦いに敗れ斬首されたため、母の伯父稲葉一鉄(良通)に匿われる。その後、稲葉家の縁戚である三条西家や帰農した一族の開田家にも居候していた。あるいは、姉の嫁ぎ先である土佐の長宗我部氏を頼ったともいわれる。
稲葉一鉄の長子で別家していた重通の婿の稲葉正成の妻が早く没したため、重通の養女となり正成の二人目の正室となる。 正勝(後の小田原藩主)他数人の子をもうけるが、1604(慶長9)年、家光の乳母として大奥に入るために離縁。俗説では夫の浮気に怒り、その相手を殺害して出奔し乳母募集の高札を見て応募したという。

大奥では家光の傅育に任じられ、秀忠正室のお江の死後、その地位を堅固にして大奥を統率した。また、1624(寛永元)年に江戸湯島に天沢寺(のちの麟祥院)を建立している。
1629(寛永6)年、将軍徳川家光の名代として伊勢参宮の途中宮中に参内し、春日局の称号を賜ったが、無位無官の為、公卿達の不興を買いその年の後水尾天皇の突然の譲位の一因になったといわれている。関連記事:光秀=天海説「お福登用の謎
小早川秀秋(こばやかわ ひであき)天正10年(1582年)−慶長7年10月18日(1602年12月1日)
筑前名島城主。備前岡山藩主。
秀吉正室ねねの実兄木下家定の五男。ねねは叔母に当たる。その関係で、秀吉の旧姓木下氏を継ぎ、最初は秀俊と名乗る。1592(文禄元)年、小早川隆景の養子となり、2年後、隆景の隠居に伴い筑前名島35万7000石を譲られる。

慶長の役では、明の大軍に包囲された蔚山城の救援に向かい、自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍した。しかし大将として軽率な行動をした秀秋に秀吉は筑後の領土を召し上げられた。その当時、石田三成による讒言であるという家康側の流した噂を信じた秀秋は、その後三成に敵対的な行動をとり始める。

関ヶ原の役では、たまたま大阪にいたため一時は西軍につくも、当初から家康側と内通をしていた。秀秋の行動を不審に思った石田三成、大谷吉継は秀秋に対して、西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの関白職の就任と、上方2ヶ国の加増を約束した。決戦当日、秀秋の心は東軍にあったとされるが、意外にも西軍が奮戦し、宇喜多秀家が福島正則を撃破し、また大谷吉継も藤堂高虎を敗走させるなど西軍有利の情報に秀秋は東軍参加を躊躇っていた。

しびれをきらした徳川家康は、秀秋の陣に空砲を発砲し、それに驚いた秀秋は突如として西軍の大谷隊を攻撃した。突然の裏切りに一時は大谷隊は奮戦し、小早川隊を後退させたが、西軍の諸武将が次々に裏切りはじめ、西軍は壊滅した。

また石田三成の父・石田正継のこもる佐和山城攻めでも功があり、役後、備前と美作に計55万石の大領を与えられ岡山藩主となる。だが、役の2年後に没し、小早川家は断絶する。


天下分け目の関ヶ原合戦、勝敗の鍵を握るのは松尾山の小早川秀秋。天海(光秀)はお福の夫稲葉正成に、その主君小早川秀秋の西軍裏切りを工作させた
安国寺恵瓊(あんこくじえいけい)天文5(1536)?-慶長5(1600)
安土桃山時代の臨済宗の僧。安芸(備後)国安国寺の住職。号は瑶甫。安芸武田氏の出と伝えられる。
安芸守護家の一族銀山城城主武田信重の遺児といわれ、幼名を竹若と称する。武田家滅亡時に逃れ、1541(天文10)年、安芸安国寺にて出家、竺雲恵心に教えを受け、安芸安国寺、備前安国寺の住持となり、1598(慶長3)年には京・東福寺住持となる。恵心が毛利氏の外交僧をしていたことから、恵瓊も毛利氏の外交僧となり、主に小早川隆景の元で働いた。

1573(天正元)年に、毛利輝元の命により織田信長と足利義昭の調停のため上洛したとき、恵瓊は信長と対面した時の印象を、「信長の代は三年から五年は持つだろうが、やがて仰向けに転ぶ(横死する)だろう。秀吉はなかなかの者だ」と国元に送った書状の中で述べている。つまり、織田勢力は長く続く無い事を本能寺の変(1582年)の10年も前に予見し、秀吉が天下をも取れる器の人物であると見抜いていたのである。

1582(天正10)年6月、備中高松城を水攻めにしていた秀吉と、毛利方の使者として講和をまとめた。講和後、信長の死を知った毛利方が秀吉追撃を計ろうとしたが、和議は成ったとして異を唱えたという。

天正11(1583)年、秀吉の家臣となる。関ヶ原の合戦では秀頼方に加わるが、小早川秀秋らが東軍に内応した為もあって、西軍は敗退。後、京で捕まり石田三成らと共に京の三条河原で斬首される。

天海自身にとって本能寺の変以来、因縁のあった人物。変の勃発時、恵瓊は織田氏最大の敵、毛利氏の使僧であったにもかかわらず、その軍師としていち早く秀吉軍と和陸し、あまつさえ毛利軍の軍旗まで与え、「中国大返し」を支援していた。山崎の合戦に続く明智氏と斎藤氏の滅亡を間接的に演出していた。
恵瓊は関ヶ原の合戦においては参戦せずにただ現場で中立を守っただけであった。にもかかわらず西軍敗退後石田三成らと共に斬刑に処されたのは、天海こと戦国武将明智光秀の個人的な復讐??

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