| top |地酒・光秀光秀年表光秀55の物語戦乱の世に消えた明智城光秀=天海説大河ドラマ光秀の本水色桔梗店主・林則夫

家紋逸話事典

丹羽基二(著)
立風書房
昭和34年発行
「桔梗紋より」抜粋
天正十年(1583)6月2日の早暁。坂本城を出た明智光秀は、13,000の兵を超えた。馬上の光秀は、目を閉ざし思いを込めたまま、馬に揺られている。
数日前、光秀は信長からこう言われた。
「汝の領土、近江を召し上げる」
光秀はわが耳を疑った。
「……近江は森蘭丸にやるのだ、その代わり」
その代わり?
「汝に中国をやる」
中国はまだこれから攻めなければ、取れるかどうかわからない。それほど自分は嫌われているのか。徳川殿の接待役も召し上げられ-それも陣幕の一部に明智家の家紋の水色桔梗が出ていたというささいなことで-幕紋の桔梗は踏みにじられ、髪の髻(もとどり)をつかまれて引きずられた。公衆の面前で。
突然彼はカッと目を開くと采配を振った。右である。
本能寺!
l一瞬どよめきが起こったが、それは不気味な殺気となって全軍を包んだ。こうして歴史上有名な本能寺の変が起こったが、光秀の天下はあえなくも十数日でつぶれた。

しかし、彼の本能寺に立てられた水色桔梗の旗は、当時の人の眼底に残っている。それは悲しい思い出として。明智光秀も亡んだし、宗家の満政流・土岐氏も亡んだ。頼芸のとき、斉藤道三に騙されたのである。美濃源氏は不運な系といえる。

桔梗は秋の草原に咲く可憐な花である。
その楚々たる姿をめでて、秋の七草の1つにもなっている。朝顔の名で呼ばれているのがそれである。これは古代の呼称であるが、一名岡止々支(ととき)ともいう。これは「岡に咲く神草」という意で、このトトキの生えている土地から土岐の語ができた。土岐氏が桔梗を家紋に用いるのはそのためである。

ところが桔梗紋の特徴はその色にある。水色がそれであるが、他の紋章を見ると、中世はほとんどが白黒になっている。土岐氏やその支流の明智氏が水色桔梗を用いるのは、当時としてもユニークで評判だったことが知れる。

源氏の白旗は有名であるが、源氏の中で識別が起こったとき美濃源氏は水色にしたものと思う。当時、桔梗紋も用いたから、この色によったものであろう。桔梗それ自身も水色すなわち桔梗色にした。

本能寺に進む光秀は、全軍の進撃を見て、これは成功と見た。いずれ戦国武将はみな不逞の族なのだ。
『絵本太平記』では「水色に桔梗の紋つけたりし九本旗、四手しないの馬印、川風に吹きなびかせ、母衣かけたる使番二十余人」が主を取り巻いて、今や天下を盗ろうとする主人の命令を待っている。

こうして明智の水色桔梗紋は天下に鳴り響いたが、その桔梗は明らかに土岐桔梗と同じで、中心の蘂(しべ)が鉢のように大きく伸びている。
▲土岐桔梗 ▲丸に桔梗 ▲桔梗
▲植村割り桔梗 ▲剣桔梗 ▲丸に細桔梗


桔梗紋はこの他に土岐一族はみな用いる。『土岐累代記』によると、五十氏以上の名字が上がっているが、これらは現在まで続いている。
大方は美濃の地名を負っている。明智ももと明知で、美濃国可児軍明知である。明知とは湿地帯につけられた美濃の方言だ。

さて桔梗紋は、土岐一族だけでなく著名な族では、太田道潅(どうかん)と加藤清正が用いている。太田道潅は江戸開府の祖として知られているが、細桔梗といって花弁が細い。太田氏は丹波太田より興った清和源氏多田氏流といわれ土岐氏と同流である。
加藤清正は、蛇の目紋も用いたが桔梗も用いた。これは肥後入国後、その旧主尾藤氏の家紋を襲用せよという(豊臣)秀吉の配慮によるものという。いずれにしても桔梗は「吉更」の文字に示されるように、「さらに吉」の草木であることは変わりないのだが、歴史上はそのとおりにいかない。

通帳ケース 携帯・デジカメケース ティッシュケース 巾着袋 ふくさ ブックカバー サニタリーケース


当方雑貨作りや刺繍を趣味でやっております。
光秀公や桔梗紋をこよなく愛するあまり桔梗紋をモチーフにした雑貨を作ってしまいました。

手作り和風雑貨−桔梗屋−
にて販売しております。
*商品画像をクリックすると詳細ページへジャンプします。
SEO [PR] カードローン比較  空気洗浄 冷え対策 動画 無料レンタルサーバー SEO