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可児市明智長山城と光秀

明智城址保存会長
林則夫


美濃国明智の荘(可児市、瀬田、柿田、渕の上平貝戸、石森、石井、御嵩町、古屋敷、顔戸)は平安期より明智八郷と称し、京都の石清水八幡宮の荘園とし、おいしい可児米を献上したところであり、また土岐氏の支流一族が明智の荘を治めて、長山に城を築き、明智氏の発祥の地として、後の明智光秀、細川ガラシャ等の生誕の地であります。城址南側が羽崎、北側が瀬田にまたがる中世の典型的な山城明智城址があります。当時は気候温暖にして、風光明眉、市内各所に古墳群、史跡が点在し十一代景行天皇の縁りの泳宮、身隠山古墳、承久の乱合戦跡などなど、また安土、桃山時代から武将茶人愛用の織部、志野焼の発祥産地でもあります。

市内には明智城を中心として七つの城跡があり、明智氏、土岐氏、森氏の関係のものが多く、さながら戦国時代の中心地美濃の当時の姿が忍ばれます。現在土岐悪五郎の三男、羽崎三郎光直の居城羽崎城址は代々我が家の先祖が保存、現在に至っております。中でも中心的な存在は明智城であります。

私共子供の頃は緑豊かな里山で薪の切り出し、栗が実り、松茸がとれ、そして土居すべりができるよき遊び場であり、高校の頃は明智トーモンを通学しましたが、当時は城跡であることは存じていなかった。けれども後々、広見小学校の広見読本として、郷土史研究者の中に、話題になったこともあるようです。

昭和30年代に入り、名古屋のベットタウンとして宅地造成が進み、明智城の南半分・羽崎側が千数百戸の団地計画となり、急速に遺跡、古墳、文化財、の保護、保存が叫ばれることとなり、教育委員会、郷土史家の協力により、山頂の本丸跡、七ツ塚、出丸等の発見と、いつ、誰が明智軍戦死者を悼み密かに供養したのか、土中から六親脊属幽魂塔と刻まれた石塔が掘り出されることにより明智城址と断定されたのであります。

しかし地元の人々は斉藤義竜による落城と本能寺の変による光秀逆臣説に残党狩りと迫害を恐れ、物証の焼却し口をつぐみ、名を替えて、全国へ落ち武者として逃げ延びたのである。現代の平和と自由の生活の中で想像しても血の凍る思いがし、当時の人々の心中を察して余りあるものがある。

そこで私は四百年たったからもういいでしょう、と昭和48年明智城址保存会と光秀一族の法要を始めましたが、当時はまだ理解してくださる方は少なく、36歳の若僧様が私の気持ちをお察しくださり、明智一族の法要をお引き受け下さいました。この方こそ今は亡き、瀬田天竜寺住職太田義尊老師であります。寡黙にして朴訥とした風格な方でしたが、光秀の一番の理解者であったのかもしれない。

明智城と光秀について特筆すべきは、美濃国諸旧記が武功夜話の発掘により内容が完全符合してまさに超一級の史書として裏づけされたことで、明智城光秀は可児とされている。県内外、近隣市町村史も子々孫々に至るまで、史実を伝えるものとして高く評価されることと思います。本年六月には第三十回法要を営みます。
落武者子孫の皆さんも、ぜひ先祖の故郷可児へお出かけくださいますよう希望いたします。

平成15年5月1日 「ききょう」第13号より

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